| おまけ ３月１５日（土） 「おーい、暁人！」 ──そして、さらにその翌朝。 雨は早朝のうちに止み、温かな日差しと青空が広がっていた。勇は不本意なのと、いささか意地悪なのと、半々の気持ちで暁人のマンションのドアの前に立っていた。 昨日、落ち込んでいた鷹生をさんざんからかって、少し溜飲を下げたのは良いのだが、よく見ると、飛びだしていった彼は、ピアノの上に、なんと今回の演目であるプロコフィエフの楽譜を忘れていってしまっていた。 勇は無論、そんなことは知ったことじゃない、と思ったのだが、周りの連中が、月曜日まで合同練習はないし、楽譜がないと、不破が練習で困るから届けてやれよ、と言い出したのだ。 「なんで俺がそこまでしなきゃいけないんだ！」 勇は必死にそう言ったが、忌々しいことに、皆は口々にこう答えた。 「だってお前が、九条以外じゃ一番あいつと仲いいんだろ？」 「どこがいいんだ、どこが！ 最悪に悪い、の間違いだっての！」 「それに、阿久津君がさんざんからかったから、不破くん出て行っちゃったんじゃない、責任とりなさいよ！」 「ねえねえ、それに彼、どうせ九条君と一緒じゃないの？ どんな風だか見てきてよ！」 何故か女子の何名かがそんなことまで言いだし、さらに戻ってきた指揮者の桐島までが、やはり叱りつけた鷹生のことが気にかかったのか、見に行ってくれというので、しぶしぶ勇は鷹生の楽譜を持ち帰ったのだった。絶対イカれてるぞ、この学校、と心の中でつぶやきながら。 そして、さすがにその夜は、ホワイトディということで自分も約束があり、行かなかった。しかし翌朝、鷹生の携帯に電話しても出ないので、ひょっとして暁人のマンションの方かもしれない、と思い、結局ここまで来てしまったのだった。暁人のこともまだ気になるし、鷹生のことは面白くないので、この際だから思いっきりお邪魔虫をしてやるつもりだった。 「おーい、俺だよ、いないのか暁人！」 ──と、いうわけで、勇はことさら何度もチャイムを鳴らし、ついでにドアを、部屋の緒一番奥にいても聞こえそうなくらいにドンドン叩き、さらに大声で呼びかける、というのを今、しつこくくり返している最中だった。暁人には悪いと思ったが、無論、あとでフォローはするつもりである。 「え、え？ わっ……ちょ、ちょっと待って勇！」 案の定、すぐにあわてふためいた、暁人の受け答えがインターフォンから聞こえたので、勇はちょっとニヤニヤした。昨日あんなにうろたえていた鷹生が、どんな顔で出てくるかと思うと、おかしかった。しかし、 「なんだ？ 朝っぱらからうるさい奴だな」 ほとんどすぐに、玄関のドアが大きく開いたかと思うと、そこには鷹生が堂々と立っていた。 「なに……？」 勇は思わず、目をぱちくりさせた。 鷹生は、ジーンズをはいただけの姿だった。精悍な上半身はむき出しで、しかも、うっすらと日焼けした肌の上には、かすかであるが、明らかに赤い痕が幾つも散らばっている。 一瞬、なんの痕だ、と思った。が、すぐに、ぱたぱたぱた、と、シャツ姿の暁人が、小走りでもう一枚シャツを手にして現れた途端、なんだかわかった。 「あ、あの、お早う、勇……」 勇を見た途端、暁人は真っ赤になった。その顔が昨日よりもほんのりと上気して、瞳がまだ、艶やかに潤んでいる。そして、急いで着たらしい彼のシャツの襟元から、のぞいている肌の上に、こちらの方はくっきりと赤い、花びらのようなキスマークが、隠しようもないほど幾つも散らばっていたのだ。けれど、例によって暁人は自分の方は気づかず、すぐに鷹生に向き直ると、大あわてな様子で、手に持っていたシャツを着せかけようとしていた。 「ね、鷹生、駄目だよそんな格好で……これ着て、ね？」 「別にいいだろうが。男同士なんだし。あれ、なんだこれ、洗っておいてくれたのか？」 「あ、うん。ね、いいから早く着て……」 どうやら暁人は、一刻も早く、鷹生の胸の赤い痕を隠したいようだった。鷹生はそれを十分承知しているようで、ことさらゆっくり、こちらに見せつけるようにシャツを羽織っている。 「──で、なんの用だ？」 鷹生は恐ろしく素っ気ない口調で、こちらをろくに見もせずにそう言うものだから、呆然としていた勇は急にむかついてきた。確かに昨日、からかったのは自分が悪かったが、ここまでされなくても良いのじゃないかと思う。 「お前が楽譜忘れたんだろうが！ 持ってきてやったのに、なんだその態度は！」 暁人がいる手前、渡さないという意地悪も出来ず、手に持っていた楽譜を突き出し、そう言ってやったが、 「ああ、お前が馬鹿言ったから忘れた奴な」 「え、ホント？ ありがとう、勇……」 ほとんど同時に、鷹生は平然とそう言い、暁人の方がごく自然にお礼を言ったものだから、なおさら腹が立った。しかも鷹生は楽譜を受け取ると、とまどっている暁人の肩を抱いて、すぐに奥に引っ込もうとしている。 「おい待てよ！」 完全に頭に来たので、勇は、お邪魔虫に徹するつもりで言ってやった。 「せっかく来たんだから、茶ぐらい入れてくれたっていいだろが！」 「駄目だ」 しかし、鷹生がまた、あっさり即答した。勇は思わず怒鳴った。 「なんでお前が言うんだ！ ここは暁人の家だろうが！」 「俺達はこれから忙しい。暁人もイヤだ、って言ってる。……な？」 鷹生はそう言い、自分に対するのとはうって変わった優しい眼差しで、暁人の顔をのぞき込んだ。 「……」 暁人は勇と鷹生を交互に見つめ、真っ赤になった。けれど、意外なほどはっきりと、こう言った。 「うん。……ごめんね勇。鷹生へのプレゼントのこと、前の日に相談に乗ってくれて、君には本当に感謝してるけど……この後、鷹生も僕もバイトだし、今は、二人でいたいんだ……」 そう言うと、さすがに恥ずかしそうに、鷹生の肩に顔を埋めてしまった。 「なんだ、お前が阿久津と相談してたのはそれか」 鷹生は一層優しく笑い、さらに恥ずかしそうに身をすくめる暁人の身体を強く引き寄せた。そして、それじゃな、と、むしろ余裕のある笑みで勇を一瞥すると、さっさとまわれ右をして、部屋に戻っていった。そして、暁人の方も、頬を染めながら、けれど確かに嬉しそうに鷹生に寄り添い、いそいそと並んで歩いていく。もう全然こちらは振り向かない。 もう、こうなると居座る方が馬鹿である。勇は思いきり──ちょうど数日前の鷹生のように──舌打ちをすると、外に出て、わざと大きく、バタン！ とドアを閉めた。 「勝手にやってろ、全くもう！」 いささか虚しくそう叫ぶと、勇は肩をすくめて歩き出した。その少しばかり情けなさそうにすぼめられた背中に、春の日ざしが優しく降りそそいでいた。 そろそろ本気で恋人を捜そうかな、と、思いながら、彼はゆっくりとエレヴェーターの方に歩いていった。花の匂いのする風が、また吹いた。 ＥＮＤ |